◀︎ 目次へ戻る

無駄な一時間

怒りのクリック音ががらんとしたオフィスに響く。
 肺から空気が全て逃げていった。
 時計は1時間進んでいる。
 進捗は数パーセント。

 数時間前の自分を、窓から放り投げてやりたい。

 「田村のマウス、前世は極悪人だったんだろうな」
 「何の話ですか」
 「毎日ドカバキっておぉ、直ってんじゃん! 何原因?」

 柳沼は自分のネタをスルーして、俺の画面を覗き込む。バグの取れた画面は正しくログイン画面を表示していた。柳沼の大袈裟な拍手は、彼の手から垂れる糸を大きく揺らす。

「タイポでした」
「タイポぉ? AIに聞いても分からんかったの」
「トークン使い切ったんですよ」
「じゃあ、しょうがないか」

 俺の手からマウスが奪われた。柳沼のほどけかけた指が、ボタンの隙間に引っかかりそうになっている。一瞬目の前に糸が横切った。俺はまぶたを擦ると、ほどけて緩んだ。

「素晴らし! テストは明日にしてたったと退社、ほれ退社!」

 柳沼の喉は元の太さも分からないくらいに、ほどけているというのに、彼の声はいつものようにうるさい。

 俺は柳沼から目を逸らして、帰り支度を進める。だが、柳沼は再び自分の画面と向き合う。

「柳沼さんは帰らないんですか」
「後ちょっと」

 2時間前にも彼はそう言っていた。
 だから、俺はタイムカードを切ることにした。扉のドアノブが冷たい。

「施錠お願いしますね」
「ほい、任された」

 入口でもはっきりと聞こえるざらついた声。
 エレベーターを待つ間、SNSをただ眺めていた。

「田村」

 柳沼に呼ばれて振り返る。彼の手にあるのは小さなチョコだ。
 柳沼はチョコを俺に渡すと、口元を柔らかく持ち上げる。
 目元は、相変わらず分からない。糸がほどけすぎているから。

「気をつけて帰れよ」

 エレベーターの扉が開いて、閉じるその時まで柳沼は手を振っていた。手の糸がほどけるのも気にすることなく。
 俺はチョコの包み紙に、短い糸が引っかかっていたことに気がついた。