私の線香はタバコ
最近、身体から煙草が落ちてくる。
なんて、面白くもないか。
たまたま、箱から落ちただけに決まっている。
布団や枕の端に落ちていたが、寝ている間にうっかり落ちてしまったのだろう。
ただ、問題の煙草の箱は机の中心にあったのだが。
寝煙草だけはいけないと、寝る前は絶対にここに置いているはずだから。
狭い自分の部屋に目をやった。
畳みかけの洗濯物、散らかったままの要らないチラシ。
そして、床にゴミが落ちている。
我ながらだらしがない。
よっこいしょという掛け声と共に、ゆっくりとそばによって、拾い上げる。
それは、煙草だった。
小さく息をついてベランダへ向かう。肌を撫でる風は冷たかった。分厚い雲の隙間から見える月を見上げる。
風情も何も無い、良くある曇り空だ。
煙草をくわえて、火をつけると灰色の煙が立ち上る。
いつもの味、だから、きっとこれは箱からこぼれたものだ。
数ヶ月たっても落ちる煙草は減らない。
それどころか、どんどん数が増えている。
流石に何かおかしいと思ったのは、ドライヤーで髪を乾かしている時だ。
髪をすいた指に煙草が挟まっていた。
水分を含みしなった煙草を見詰めて、ゾッとした。
煙草を髪留めにする趣味はない。それも、風呂上がりに。
鏡に映り込む自分の姿を見た。
目の下にクマがあるのは、いつも通り。
やつれて見えるのも、いつも通り。
だが、これもいつも通りで良いのだろうか。
手の平の上にある煙草をただ見つめる。
乾かしきれていない髪が服を濡らし、折角温まった身体が冷えていった。
髪をつたって、雫が落ちる音が規則正しく聞こえる。
病んでいるのだろうか。残業、多かったし。
曇った鏡を袖の裾で拭いた。
瞬きをした瞬間、こめかみのあたりに。
煙草が刺さっていた。お洒落な簪とは程遠かった。
翌朝、電車の吊り革を掴みながらスマホで精神科を探していた。
Web予約できると言っても、平日の昼間じゃ意味がない。
有給は、まぁ有り余っているけど。
有給の取り方すらわからない。就業規則とかに、いや素直に上司に言おう。
目の前の席の人が、わざとらしく舌打ちをする。こっちまで不幸がたまる様だ。
彼は私の方を睨みつけると、その手を差し出してきた。
手には煙草があった。爪で器用につまんでいる。
「すみません」
遅れてやってきた罪悪感は、心臓を薄く削いでいく様だった。
箱は当然しまっている。と言うよりも、喫煙所につくまではカバンにしまっているのに。
絶対に、おかしい。
病院の予約を取ったのは何ヶ月も前だ。でも、煙草は身体から落ち続けている。
足元に落ちた煙草を拾い上げ、小さなビニール袋に入れる。その中に溜まり込んだ数はついに一箱分になっていた。
買えば500円くらいはするのに。
心の中で悪態をついて気を紛らわせる。
入り口の金属の取手はひんやりとしていて、私の体温を吸い上げる様だ。
やたら段差のある階段を登り、受付口にたどり着く。
待合室には患者さんが席を埋めていた。
地面には何かの小さな紙が散らばっていて、患者さんと思わしき女性が必死にかき集めている。
物珍しいことといえばそのくらいで、思ったよりもみんな健康そうに見えた。
紙束をかき集めていた女性が咳き込むと、抑えた手から紙が吹き出した。
マジックか何か、だろうか。
彼女は新しく散らかした紙をみると泣きながらそれを拾っていた。
「受付はこちらですよ」
受付の女性に声をかけられる。私は慌てて、受付で手続きを済ませた。
「若葉さん」
男性の先生が、私の名前を呼んだ。
少し緊張しながら診察室へと入るも、どこまでも普通だった。
透明な仕切りがあるけど、それは最近なら普通だし。
パソコンが先生のすぐそばにあって、椅子が用意されていて。
風邪を引いた時にお世話になるあの感じとさして変わらない。
私は促されるままに椅子に座った。
「煙草が、身体から落ちてくる。と」
いつ頃からか、とか色々聞かれたと思う。
全部曖昧だったし、キーボードが音を鳴らすたびに不安になった。
「依存性同化現象というものかもしれませんね」
「依存?」
彼は頷き、席を椅子に座ったまま棚に視線をやった。
「依同化、と略したりします。同化のどうは『同じ』って字です。なんとなく想像つくかもしれませんが」
——依存しているものに身体の一部が変化してしまうという現象、だそうです。
結局先生は何もしてはくれなかった。初診だから、とかなんとか言って。
煙草から一旦離れましょうと言われるだけだった。
ベランダの手すりに寄りかかる。指の間には当然煙草を挟んでいた。
ゆらゆらと細く揺れる煙をただぼんやりと眺める。
月はまんまるに輝いていて、いつもより大きく見える。
こっちは何にも解決していないのに。
灰皿に吸い殻が溜まって、身体から落ちただろう煙草も溜まっていった。
病院は結局初診だけで辞めてしまった。
煙草から離れろって言ったて。ねぇ。
やめようと思えば思うほどに手が伸びるし。
冷蔵庫の上に置いたなら新しいものを買ってしまうし。
会社で席を立てば、勝手に足が喫煙室に向く。
呼吸を止めろって方が、まだできるよ。そんなの。
おかげで、髪をまとめておくとか。
羽織ものでとりあえず対策とか。
自分の身体から落ちたものを拾うのさえ、日常に溶け込んでいった。
ある日、お風呂で目が覚めた。
最悪だ。
髪は洗ったというか、トリートメントまだ流せていない。
身体を起こすと、緩くなったお湯がちゃぷんと音を立てる。
肌に何かが当たった。
湯の水面は、煙草で埋め尽くされていた。
微かに、黒い液が滲み出ている。
「……最悪だ」
煙草汁付けの人間なんて、いくらなんでも嫌だ。
急いで風呂から上がり、シャワーの蛇口をひねる。
排水溝にまた、煙草が溜まっていた。
まさか、朝だとは思わなかったよ。
風呂場をようやく片付け終わると、カーテンの向こうから陽の光が差していた。
熟睡にも程がある。しかも、お風呂の中で。
朝5時って、二度寝するには怖い時間だ。
洗い物は済ませたし、ほんの少し掃除には少し早い。掃除機意外とうるさいから。
たまたま目に入った上着を手に取って、部屋の鍵を持って外に出る。
煙草でも買いに行くか。
別に何も特別ではない選択だった。
私の横を走り去っていくお爺さんに、猫と散歩帰りの女性。
猫って、リードつけて散歩するんだ。
私の視線に気がついたのか、黒猫はこちらをじっと見つめた。
細長くなった瞳孔に、黄色い瞳。飼い主の女性が黒猫を抱き上げる。黒猫は彼女の肩越しにじっと私を見つめてきた。
地面に身体を打ちつけた。
え、何?
起き上がると地面には煙草が何本も散らばっている。
集めないと。
そうポッケから袋を取り出そうとした。
けど、その手が抉れていた。
動かすたびに解れ全部が煙草になっていく。
視界がぐるりと回って、世界が90度傾いた。
すぐ目の前にも煙草だ。
あとはアスファルト。
どうしよう。
誰か。
どうなってるの。
足、動かない。
声、出ない。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
一通りの焦りが巡った。
残ったのは冷さだった。
乾く涙もなかった。
煙草しかなかった。
眩しさに、目がくらむ。
ライターが陽の光を受けて光っていた。
手を伸ばし、慣れた手つきで火をつける。
運良く垂直に立っていた煙草に火をつけた。
なんで今、思いついたのが。
線香なんだろうか。
車がすぐ側を通り、私の線香を倒してしまった。
朝の住宅街。カラスが元気よく鳴いている。
とある女性が盛大なため息をついていた。
彼女は仕舞い込んだ箒と塵取りを探しに引っ込む。
家の前にぶちまけられた、煙草を片付けるために。
旧あらすじ:
会社員の若葉は日々の生活に疲弊していた。
とはいっても、少し残業が多いだけ。
少し、会社が遠いだけ。
少し、部屋が荒れているだけ。
言い訳をする彼女の手元にはいつも煙草があった。
吸い殻が増えるたびに彼女の身体と暮らしの“ほころび”は静かに形を変えていく。
気づいた時には、もう戻れない。