出会い
澄み渡った朝の空、慌ただしく少年が駆けていき、カバンから何かが溢れた。
地面に落ちた紙を拾うと、拙い文字が目に入る。
そう、確かこんな日だった。
僕と彼が出会ったのは。
その答え合わせをするにはもう遅すぎるけれど。
ただ、夜ではなかった。彼を照らしていた光は魔法によるものでも、ランタンによるものでもなかった。
天の恵みが与えた、清らかなものだった。
だから、たぶん朝か、昼……いや、朝だ。
彼に似合う空気は澄んだ朝に決まっている。
彼は、ただそこに立っていた。
こちらに足を向けて、ゆっくりと歩き出す。
本当にただそれだけだった。なのにその一瞬が、まるで絵画を切り取ったように、網膜に焼きついた。
彼と、目が合った。
息が、無くなるかと思った。
どうすることもできずに、ただ立ち尽くしていた。
彼が首を傾げ、ようやく。
僕は彼を見過ぎていることに気がついた。
「すみません……」
小さく謝って、僕はその場から逃げた。
……そうだ、あの時。
僕が逃げた先は、目的と真反対の方向だったんだ。
だから、結局道を戻る事になったんだ。
そして、また彼を見つけた。
彼は僕を見て、穏やかに微笑んだ。
ゆっくりと彼が近づいてきた。
心臓が、身体の中でひっくり返ったと思う。
「落としましたよ」
彼が手渡したのは、僕が魔法書に挟んでいた端書きだった。
見覚えのある汚い文字に、恥ずかしさが込み上げる。
慌てて魔法書を開くと、確かにそこには何も無かった。
震える手で彼から端書き受け取る。
「すみません、ありがとうございます」
「どういたしまして」
低く深みのある声だった。
耳に直接溶け込んでくるようで、もう少し聞いていたい。
彼の声に耳を傾けすぎる自分に気がつき、彼から目を逸らす。
そうしている間に、彼はいつの間にかいなくなってしまっていた。
ただ意味もなく自分の不恰好な文字を眺めていたのは、やけによく覚えている。
***
お礼がしたい。そう言い訳をつけて昨日出会った彼を探していた。
でも、どう探したら良いのかわからなかった。
名前も聞いていないし、ただ落とし物を拾ってくれたと言う接点しかない。
昨日彼が拾ってくれた端書きに目を落として、ため息をついた。
あんなに彼を見てしまっていたというのに。
——綺麗なものを見た。
そんな言葉した出てこなかったから。
良くないとは思うけど、あれが、本当の意味で『綺麗』なのだと思う。
彼と出会ったはずの場所を歩いて、勘だけを頼りに探し回る。
網膜に焼き付いた、だなんて格好つけている暇があったら。本当に、ちゃんと、もっとよく……。
鈴の音が寂しい小道に転がる。
振り返ると、背の高い男性が店の支度をしている。
黒い皺の無いエプロン。太腿には杖のホルダーが取り付けられている。
彼は左手でホルダーから杖を引き抜き、店のカーテンを順番にあけていく。
月の光に染まった様な白髪は、きっちりと後ろに一纏めにされている。癖のある前髪が真ん中で分けられていて、すんだ瞳がこちらを見ていた。
「何かご用でしょうか?」
——あの声だ。
心臓が大きく音を立てた。
彼の目尻に柔らかなシワがそっと刻まれる。
「あ、いえ。……その」
言葉は用意していたはずなのに、全部頭から吹き飛んでいった。心臓が身体から逃げ出しそうだ。
全身の血が言うことを聞いて、いない。
訳の分からないことが頭の中でぐるぐると駆け回る。
彼は僕の言葉を待って首を傾げた。
沈黙しかないはずなのに、僕の心臓だけが本当にうるさかった。
僕は一歩、足を後ろに下げ彼から距離を取った。
そんなに、近すぎる距離でもなかったはずなのに。
「昨日の、お礼を伝えたくて」
「昨日の?」
「あの、これ。拾っていただいて」
どうせうまくは伝えられないと、持ち物も、何もかも昨日のままやってきた。
彼は僕の端書きを見ると、一瞬笑みを解いた。
冷たい空気が肌を撫で、彼の髪をかすかに揺らす。
雲が太陽を覆い隠し、濃い影が彼の瞳から一瞬光を奪い。
そこに、冷たさを飲み込むような静寂を見た気がした。
「そんな、大袈裟な……。それに謝意なら昨日頂戴しましたよ」
影はすぐに息を顰めた。
「いえ、とても助かったので」
言われてみれば、ここまで押しかけるのは違う。
お礼の品とか持ってきているわけでもないのに。
あまりに突拍子もない行動をした自分に、恥ずかしさが遅れてやってきた。
「それは、何よりです」
彼の返事はあまりに淡白だった。
でも、このままだと終わってしまう。
どうにかして、何か。
そう焦る中目に入ったのは、彼の少し後ろ。
店の扉にかけられた準備中の札だった。
「……何時から、ですか? お店」
彼は少し間を開けて、口を開く。
「広場をゆっくり一周する頃には、開いてますよ」
彼はそう言うと、軽く会釈をして店へと戻って行った。
彼の後ろ姿が店の中に消えるまで、僕はその場に突っ立っていた。
だから、後ろに結ばれた、エプロンの紐。
その長ささえ、揃っていた事に気が付いた。
***
彼に言われるがまま、町の中央にある広場をゆっくりと回った。
その間、たぶん色んな人にすれ違った。
冒険者や、魔法使い。僧侶に商人とか。覚えてないのは仕方ない。
だって、彼はどんなお店で働いているのか気になって仕方なかったから。
そんなふわふわとした足取りで、恩人の彼の店へと向かう。
店の扉に掛かっている看板の文字が変わっていた。
整った文字で、店が開いていることを知らせている。
取っ手に手をかけるだけなのに、指先が震えてしまう。
木の温もりは、僕の体温を鈍らせるようだった。
店の中に並んでいるのは、魔道具だ。
値札がついているから、売り物、でいいのだろうか。
どの魔道具も、並べられていると言うよりも、その場にあるべき存在のように感じるから。
その上、今目の前にある、魔力を測る魔道具さえ、僕が知っているものとは程遠い。
細やかな装飾に、静謐の中輝く魔力鉱石。
魔道具は言ってみれば使ってこそのはずなのに、目の前にある魔道具は触れてもいないのに、その時間が尊いものに思えるような気がする。
ここに居るべきでは無い。
遅れてやってきた理解に、背筋が固まるような気がした。
息をして良いのだろうか。
手に汗が滲んで、関節と肉がぶつかる音さえ聞こえる。
肩をとんと叩かれ、自分の存在が一気にこの場に戻される。
白い手袋をした彼の手が、僕の肩に置かれていた。
すぐそばに彼がいる。足一つ分くらい、先に。
「……本日は、何をお求めで?」
彼の声が鼓膜を揺すった。
ごく当たり前の問いかけだ。
でも、僕はその答えを持ってはいない。
魔道具が欲しいわけ、じゃなかったから。
少しでもいいから、彼を見たいと思ったから。
彼は、僕から視線を外すことなく返事を待っていた。
「ごめんなさい。少し意地悪でしたね」
口を閉ざしていると、彼は頬を綻ばせる。
「君も、魔道具がお好きなのでしょう?」
「……はい」
嘘ではなかった。だから、そう答えた。
「なら、ここの居心地はどうですか?」
彼はそういうと、店の中にあるソファへと僕を誘導した。
本来ならば、お客さんとじっくり話すための席、だと思う。
ゆっくりと座ったのに、それでも沈み込むくらいソファはふかふかだった。
僕は必死に背筋を伸ばす。
「ちょっと、緊張します」
「緊張ですか」
「ここにあるもの、全部」
僕は店内を見渡し、最後に彼を見る。
眼鏡越しに見える、彼の瞳はじっとは見てられなかった。
「……綺麗だと思う、ので」
本心なのに、言葉尻が震えた。
綺麗って、すごく……その。
難しい……から。
「お褒めに預かり、光栄です」
言葉の震えも、彼の言葉一つで許されるような気がした。
「特に気になるものとかありますか?」
「あ、えっと」
視線が逃げた先にあったのは、先ほどまで見ていた魔力測定の魔道具だ。
深い紫色の魔力鉱石が、煌めいた。
彼は魔道具のそばによって、柔らかく微笑むと視線を魔道具へ注いだ。
「この魔力測定装置はかなり年代物でして、最近のものとは異なり色で判別するのですよ」
「色ですか?」
彼はこくりと頷く。白い手袋を外し、魔道具に埋め込まれた魔力鉱石に触れた。
金属の台座に触れているガラスが、細い紋様を生み出し、内側から淡い光を放たれる。
紫色の光の玉がガラスの中で不安定な光を灯した。
「この色は闇属性。私の場合は単色ですが、複数の属性を持つ場合は光源の数が変わります。そして——」
彼はそう魔道具の説明をしてくれた。ひとしきり説明した後に、口元を押さえて僕に軽く頭を下げた。
ただ、その目元は細められていた。
「……お喋りが過ぎますね。歳を言い訳にさせてください」
楽しげに語る彼から、目が離せなかった。
その声しか聞いていなかった。
「ミケルー! 居るだろう?」
溌剌とした男性の声が、店の入り口から聞こえてくる。
鈴の音の余韻もかすかに、感じ取れた。
「裏口から入れ、といつも言ってるでしょう」
「こっちの方が早いだろう」
僕の目の前にいる彼の返事は軽やかだった。彼は僕に軽く会釈をすると入り口へと向かう。
彼にも、名前あったんだな。当たり前だけど。
当たり前なんだけど。
……。
心の中でさえ、今は呼べなかった。